JR京都駅改革小史

政経リポート平成16年2月15日号掲載分

昭和25年4月、筆者は京都市役所土木局営繕課へ建築技師として就職した。就職した年は市内の木造建消防署の車庫だけを鉄筋コンクリート造に改築する仕事が多かった。
昭和25年11月17日の夜、下京消防署(JR京都駅の北側の近鉄百貨店の西)内の署長公舎で車庫の建替えの設計の打合わせをした。そのときの吉岡署長の話によると、市内の各消防署には独立した鉄骨製の望楼の上から火災発見するのが最も有効であり、下京消防署は南側に建つ関西電力ビルの塔屋を借りて望楼の代わりにしているので他よりも視野が広くて火災発見が早いと自慢されていた。確かに京都駅舎を真下に見下ろす位置に在った。

翌一八日早朝京都駅舎が全焼した。駅舎の屋根裏に延焼し続けたため望楼発見が遅れた。その責任を問われて間もなく人事異動で署長は左遷させられた。不運という二文字をいまも忘れることができない。(2)が消失前の駅舎で、(1)は初代の京都駅舎で、(3)は消失後の三代目の京都駅舎である。三代目の設計は設計コンペ(競技)により京都市内の吉村建築設計事務所の八木副所長の案が当選した。この三代目駅舎は戦後の経済不況の中で節約して改築されたので鉄筋の使用量も少ないと国鉄当局は早期改築を望んでいた。この写真は戦後苦労した市民にとってはなつかしい思い出であろう。


初代駅舎


2代目駅舎


3代目駅舎

『歴史都市・京都の玄関ともいうべきJR京都駅ビルの改築設計コンペ要領が京都駅ビル開発株式会社から発表され、貴殿はコンペ参加者の一人として指名されたことを知りました。
御承知のとおり、京都は平安京以来千二百年の歴史をもつ世界的な歴史都市であり、ユネスコも1970年に「京都・奈良の都市計画における歴史的地域の保存と開発に関する勧告」で、その価値の高さを確認しています。
ところが、東京にはじまった狂乱地価はこの京都にも波及し、都心部ばかりか自然環境や歴史的遺産に恵まれた周辺部にまで乱開発の波が押し寄せ、歴史的景観や環境の破壊が次々と引き起こされています。しかも、京都市は総合設計制度を導入で建築物の高さを緩和するという景観無視の決定を行いました。京都を愛し、ここに住み続けたいと願う市民の間に、高層建築乱発への突破口となることを危惧(きぐ)する激しい論議が巻き起こり、京都を守れという大きな運動が、澎湃(ほうはい)として起きたのも当然のことだと思います。

発表されたコンペ要領を見ると、「シンボリックな形状および新しいランドマークの創出」を求め、具体的な高さは設計者にゆだねながら、同時に「高さについては、都市計画上の所要の措置が得られるものと仮定する」として、超高層の駅ビルを計画することを前提としており、市民の間に歴史的景観の破壊に対する不安と抗議の声が広がっています。
私たちは京都の歴史的景観や環境を守り、安心して住み続けることのできるまちを創りあげていく主体が、そこに暮らす市民であると考えています。この立場から、私たちは間接的にしか知ることのできなかった市民不在の改築計画の進め方に対し、計画を広く市民に公開することや、歴史都市・京都の景観について深い見識をもつ建築家に設計を委嘱すべきことを訴えた要請を、今年七月、京都市などの事業主体に行いましたが、顧みられることなく、今日に至りました。
そこで、私たちは指名コンペに参加される貴殿に、JR京都駅ビルの改築計画に関する以下のような公開質問を提起致します。誠意ある御回答をお寄せくださることをお願い致します。
ご回答は12月20日までにお寄せください。なお、その結果は公表されることを申し添えておきます。
一  JR京都ビルの改築計画に関して、市民の間に京都の歴史的景観にそぐわないノッポビル反対の運動が巻き起こっていることをご存知ですか。
二  このノッポビル反対の市民の運動について、どうお考えですか。
三  私たちはかけがえのない京都の歴史的景観を破壊から守ることが、日本ばかりではなく世界的にも緊急の課題だと考えます。貴殿の京都の景観についての基本的な考えをお聞かせください。
四  コンペの要領には「文化の香りと躍動する街のメディアとしての駅」というコンセプトが掲げられていますが、改築計画立案に当り、前項のお考えを踏まえた貴殿のデザインの基本的なコンセプトをお聞かせください。
五  コンペ要項にある計画の条件に、貴殿のデザインコンセプトからみて不適切な点があるとは思われませんか。もしあるとすれば、主催者にその指摘を行い、訂正を申し入れるお考えはありまえんか。また主催者が申し入れに応じない場合、コンペの参加を辞退されるなどの処置を講じる意向はありませんか。
六  JR京都駅ビル改築計画に関して、事前に市民との話し合いの場を持ち、あるいは市民の声を受け入れる意向がおありでしょうか。
なお付け加えて、広範な市民の反対運動が展開されたにもかかわらず、1964年、京都駅前に工作物として建てられた130メートルの高さをもつ京都タワーは、すでに電波塔としての機能を失っています。貴殿がJR京都駅ビル改築計画を立案されるとき、この近接する京都タワーが計画上支障をきたすと考えられる場合、このタワーの撤去を提案されるお考えはありませんか。ご回答頂ければ幸いです。
1990年12月10日
新建築技術者団・京都支部

長文の(JR京都駅ビル改築設計コンペに関する公開質問状)である。
景観史的価値が高いので、あえて全文を紹介した。その結果、公開質問状は表面上無視され、翌平成3年(1991年)5月8日、審査の結果、東京の原廣司氏案が当選した。
この公開質問状がコンペ参加の設計者の心を強く揺さぶったことは事実である。当選案は建物の高さが最も低く、しかも59.80メートルと京都ホテルより20センチメートル削っているところが大いなるプロ感覚といえるものであろう。
この駅舎ビルの完成度の反響は少なく、むしろ若者には歓迎されているようである。京都駅に着いた乗客にとっても、駅舎内は暗く冷たい寺の本堂内を歩く感覚があり、京都に着いたなあの実感を持たせていると思う。あれほどマスコミが連日のようにノッポビル林立の時代到来と宣伝していたのは何であったか虚しい気持ちだけが残っている。
京都タワーは残った。しかも新駅舎ビルができたことで、却ってその巨大なスケール感が無くなっている。いま京のまちは、都心に建つ高層分譲マンションラッシュに対し、民・官・企業の攻防に焦点が移っている。