京都の超高層塔

政経リポート平成16年2月25日号掲載分
2000年(平成12年)1月5日、京都商工会議所稲盛和夫会頭は京都経済四団体新春年賀交歓会のあいさつで、京都の新たな観光名所として、世界有数の80メートルの高さの木造で「平和の大塔」建設に取り組む構想を明らかにした。
稲盛会頭は「まだ夢のような話だが釘一本使わない木造の八角九重塔を再現し、2十世紀の戦乱で亡くなった世界の人々の鎮魂の塔にしたい」と語っている。この話は残念ながら立ち消えになっている。
この話は筆者の友人のある大学の名誉教授の持ち込みであった。筆者も頼まれて市内の候補地をいくつか挙げたが、建築基準法上、このような木造の超高塔を建築物として使用するのは不可能に近かった。その可能性は建築基準法第3条第1項第四号で「保存建築物であったものの原型を再現する建築物」に限られる。つまり、元あった位置で復元する場合である。その位置は、左京区岡崎の市営動物園の中である。
京都はその歴史のなかで、宗教施設に対し巨大な投資をしてきた。今それらは貴重な文化遺産になっているが、それぞれの時代の庶民にとっては、いかに巨大な宗教施設であっても畏怖すべき存在であった。現在のような超高層反対の意見が出る余地は全くなかった。『京都の歴史2』の叢書の一部を引用して話を展開することとする。
左京の白河一帯が急速に開発されていったのは、11世紀後半における白河天皇の法勝寺(ほっしょうじ)にはじまる寺院、いわゆる六勝寺や離宮の造宮に関係がある。六勝寺とは法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺をいう。これらの6勝寺の地は現在の岡崎公園一帯、動物園のある辺りで、二条大路をそのまま延長したところに法勝寺の西大門が開かれ、ほかの寺々もその間でこの大路に面して、その南北に1町ないし4町の規模でつくられていた。
法勝寺は左大臣藤原師実の献上をうけた白河天皇が、承保2年(1075)造宮に着手した御願寺である。この寺域は約4町と推定されるから、かつての藤原道長の法成寺に匹敵する規模を有していた。
「希代」といえば、法勝寺を特徴づけた九重の大塔こそそう呼ぶにふさわしい建物であった。この塔は永保元年(1081)に計画され、以後3年を要して建造された。八角九重というその形状ばかりでなく、その大きさも並はずれていた。(左図参照)暦応3年(1340)の記録によると、その再健塔の高さは27丈あったと推定されるから、元はそれと同じか、むしろ超えていたと思われる創建の塔は、実に82メートルに及ぼうという巨大なものであった。しかし地盤が弱かったに違いない土地で地盤改良をすることなく建造したため、おそらく不同沈下が起こり、承得2年(1098)に大修理が行われた。木造で82メートルの高さの超高塔が、今から920年前に建てられたことは驚くべき高度な木造技術があったことを証明するものである。現存していれば世界文化遺産の筆頭に挙げられるべきであったろうが、現存していない。
この超高塔は創建百年後の元暦2年(1185)その年改元されて文治元年7月の京洛史上最大の京都大地震マグニチュード7.4、兵庫県南部地震の2倍のエネルギー)によって大破壊した。「平家物語」の記述によると、「白河辺の六勝寺はみな倒壊し、九重の塔も上の六層がくずれ落ちた。」とある。
実際は大塔の相輪が折れ桧皮葺(ひはだぶき)の屋根板がすべて落下し、大塔の胴体部分だけが残り、辛うじて倒壊を免れている。
その後再建されたが、承元2年(1208)に落雷によって焼失した。その後再び再建されたが、康永元年(1342)に附近の人家火災の飛び火により再び焼失し、以後は再建されなかった。わずか258年の寿命であった。正に、地震・雷・火事は恐ろしい限りである。