四百年後の京都

政経リポート平成16年4月15日号掲載分
(衝撃の出会い)
昭和末期の昭和六〇年代のある日、旧制高校の先輩で特に交際が深かった河野卓男(故)ムーンバット株式会社社長(当時)から突然次のような質問を受けた。
「望月君、君は京都市を退職した後、京都市大阪市・神戸市の三都市の学者・研究者・市職員・同OBで日本都市問題関西会議なる組織をつくってまちづくりの研究をしていると聞いたが、最近刊行された『文明の研究』という本を読んでるか。読んでないなら必ず読まなければ後悔するぞ。村山節(みさお)という筆者で、副題として『歴史の法則と未来予測』と書かれている。要は日本をはじめとして、世界の文明の歴史は一つの例外もなく、その文明波動は高調期八〇〇年、低調期八〇〇年に分かれ、一六〇〇年周期の整然としたサインカーブを画いている。そのうえ、東洋と西洋で、そのカーブが八〇〇年ずれている。そのカーブの転換期には戦争・天変地異が続発している。その転換期が西暦二〇〇〇年の今なのだ。早くその本を読まないと大変なことになるぞ」
早速、発行所(京都)へ走り、その本を必死の思いで読み通した。しかし実感が湧かない。聖書の予言にも似ている。早速、日本都市問題会議の世話人に連絡すると、一度河野卓男氏にその話をしていただこうということになった。京都でその講演会を開いたが、皆半信半疑の気持ちが消えず、会員一人として反論できないままに終った。
(著者の研究結果)
人類の大文明は偶然の所産でなく、宇宙と地球物理と人類との関係におけるエネルギー周期をもっている。そのエネルギー周期は約一六〇〇年変換型(誤差プラスマイナス五〇年)であって、低調波と高調波のくり返しのパターンをなしている。人類のあらゆる偉大な文明とはひとつの例外もなく高調波時代の所産である。
高調波の前半期には偉大なる芸術的文化が創造され易く、後半期には偉大なる最高文化(思想・哲学・宗教・科学など)が創造される傾向がある。約八〇〇年ごとに世界史転換期が必ず到来している・この世界史転換期は、低調波から高調波へ移る際(例えば東洋)は一時期の大変化期であるが、高調波の終末期(例えば西洋)につづく場合は大文明の終末の大断層となっている。
実証によれば、東の文明(メソポタミア、インド、中国、日本など)と西の文明(エジプト・エーゲ海、ヨーロッパ)は高低正反のクロスサイクルとなっている。
世界史転換期は、何らかの不明な原因による地球のエネルギーと気候の激変期で、ユーラシア内陸その他では大干ばつとなり、飢えた人々の凄惨な民族移動発生となり、史上の多くの大文明は移動侵入する北方蛮族の殺戮流血のなかに亡んだのである。(右図表参照)
(日本の文明転換期)
日本の文明転換期は右図表に示すとおり、西暦二〇〇〇年の現在から数えて前八〇〇年間が低調期で、西暦一二〇〇年が前の文明転換期で、その時点から前八〇〇年間は高調期となっている。具体的に検証することとする。
京都市は平成六年(一九九四)に平安建都一二〇〇年を迎えている。つまり西暦七九四年は右図表の高調期の頂点にある。飛鳥奈良とともに平安文化が大いに栄えた時代に当る。
次に西暦一二〇〇年の文明転換期はどうであったか。西暦一一五〇年以降、諸国で大飢饉が続き、京都では疫病流行、大火、鴨川氾濫などの天変地異が続発した。また、戦争が頻発し、遂に文治元年(一一八五年)三月、源氏軍が長門壇ノ浦で平家を全滅させ、安徳天皇入水という史上稀にみる大事変が勃発した。さらに、同年七月には京都市東山五条付近で巨大地震マグニチュード七・四、兵庫県南部地震の二倍)が発生し、市中の家屋の大半が倒壊した。その後鎌倉幕府が開かれ、ここに輝かしい王朝文明が亡ぶに至った。その後の五〇年の間にも、諸国大飢饉、鎌倉洪水と地震、京都洪水と大火、承久の乱など天変地異・戦乱が続いている。
西暦一二〇〇年の文明転換期を経た後、八〇〇年の低調期に入り戦乱の絶えない暗黒時代(中世期)に突入する。この低調期の最低点の西暦一六〇〇年(慶長五年)に天下分け目の関ヶ原の合戦が行われたことはこの書の真実を証明するものであろう。
いま、日本をはじめ世界中が文明転換期の真只中にある。日本は明治・大正・昭和の三代にわたり富国強兵策を取った結果、昭和一六年(一九四一)対米英へ宣戦布告、昭和二〇年(一九四五)広島・長崎へ原爆投下、敗戦、平成二年(一九九〇)経済バブル崩壊、続いて経済大不況と苦難のみちをたどっている。また、大地震も多発し、昭和一八年(一九四三)の鳥取地震をはじめとして現在まで日本全国でマグニチュード七クラスの地震が二〇回以上発生している。
今後も転変地異の発生は避けられないが、日本を含む東洋は徐々に文明高調期に入りつつあることが唯一の救いといえよう。反対に、西洋の文明は没落の危機にあることが注目される。
(著者の開眼)
村山節著「文明の研究−歴史の法則と未来予測」は昭和五九年(一九八四)に刊行されて今年で二〇年になる。この書の「あとがき」の一部を次ぎに紹介する。
「まだ私は二六才だったが、文明周期を発見したのはその頃であった。大型の画仙紙をつないで幅約一メートル、長さ一〇メートルぐらいの丈夫なロールペーパーを作製し、その上に正確な年代目盛りを付け、それに対応させて諸民族の盛衰、文化の様態、あらゆる主要事件を記入したのである。六千年の人類文明がひと眼で見渡せるのだ。
この図表から文明は興亡盛衰する、つかの間の光明で、文明と文明の間には暗黒時代が必ずあったし、所々に人類文明の大きな断層があった。その断層期に赤エンピツで区分線を入れた。ある日、それを見渡してギョッとした。赤エンピツの線と線の間隔がほぼ同じに見えたのだ。」
(四百年後の京都)
この書の東と西の文明境界線は紅海−レバノン−シリア−アルメニアを通る南北線とされている。このことからイスラエルパレスチナ・イラン・イラクはすべて東の文明圏に入る。
四百年後の世界文明はどうなるか。その答えは図表を見れば明らかである。東洋文明は再び開花を続け四〇〇年後にその頂点に建つ。一六〇〇年前の平安京創建の時期と合致する。逆に西洋文明は再び暗黒の時代に突入し、天変地異・戦争の頻発に悩まされ続け、四百年後に最低点に立つ。
今後四百年間は東洋文明が栄え、西洋文明が没落していくので、西洋民族の東洋への大移動が出現する。日本にも世界中から多くの人々が流入してくる。文明の中から文字を中心に視点を置くと文化という表現になる。
日本文化は今後も京都が中心になる。今後いかに文化や科学が進んでも、歴史的文化遺産の評価は上昇し続けるであろう。平安京が復元された町になっているかもしれない。そのためにも、天変地異に耐えるまちづくりが必要となろう。平安建都一六〇〇年の花の都、京都を夢見るばかりの思いである。