角倉了以と京の都市改造

角倉了以家》
角倉(すみのくら)了以家は代々医術をもって家業としていたが、了以の代になり代々蓄えられた資金を活用し、海外貿易と国内の下線開疏の水利事業を手掛けて巨万の富を築き、徳川時代には後藤・茶屋の二家とともに「京の三長者」と呼ばれる豪商になった。
しかし、戦国時代が終わり徳川時代が始まり乱から和の時代へ急転する時代に生まれたからこそ、了以はその才能を存分に発揮することができたのであろう。しかも、信長・秀吉・家康の三代に生き、そして、この三人の武将が陸の都市改造に専念した事に対し、了以は水の都市改造を得意とした。

《信長の入洛》

永禄一一年(一五六八)、信長は将軍足利義昭とともに念願の入洛を果した。了以一四才の年であった。それから一四年後の天正一〇年(一五八二)、本能寺の変により信長はあえない最期を遂げた。了以二八才であった。了以は多感な青年として、時代が急転して秀吉の時代に突入していくことを本能寺の焼跡に立ってその目で確めたことであろう。この焼跡から東二町離れたところに茶屋四次郎屋敷があり、偶然宿泊していた家康はあたふたと岡崎へ逃げ帰り難を逃れている。

《秀吉の都市改造》

本能寺の変の四年後の天正一四年(一五八六)、秀吉は東山に方広寺大仏殿を県立した。了以三二才の年であった。後年、この大仏殿の再建工事に了以みずからが参画するようになろうとは夢にも思っていなかったであろう。さらに四年後の天正一八年(一五九〇)、秀吉は京の町割りの改造に取り掛かり、一町四方の街区の南北背割り線(一部東西あり)に沿って新しい道路をつくることが可能なところを選び、短冊(たんざく)型の街区にして宅地割りの合理化を計った。また、市内に乱立して市街化の障害になっていた寺を寺の内と寺町の二ヵ所に集めた。了以三六才の年であった。
その翌年の天正一九年(一五九一)の正月、秀吉は大動員令を発し、鴨川・紙屋川堤防を兼ねて市街地の周囲に延長二〇キロの「お土居」という名の堤防を築かせた。その工期わずか二ヵ月というから、秀吉得意の突貫工事で、京童をアッといわせた。
秀吉によるこれらの都市改造によって、応仁の乱以降、上京と下京に二分されていた京の町が急速に進展し、さらに北・左京へと市街地が広がっていった。壮年時代の了以はお土居をまわり新町割りをのぞいて、この凄ましいばかりの秀吉の都市改造をみて、いつか我こそはと心に念じたことであろう。
お土居築造の七年後、慶長三年(一五九八)秀吉は六三才で没した。了以四四才の年であった。そして、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の合戦により天下は家康に傾いていった。四六才になった了以はいよいよ好機到来を肌で感じ取ったことであろう。

《家康の時代》

慶長八年(一六〇三)、家康は江戸に幕府をつくり徳川三百年の戦争のない時代の基礎をつくりはじめた。了以四九才の年であった。
この年から了以の大事業家としての活躍がはじまった。すなわち慶長八年から同一八年(一六一三)までの一一年間に、了以は朱印船により安南貿易をして巨万の富を築いた。この資金は京をはじめとする国内の水利事業に活用された。
まず、了以は目を京の振興に向けた。それは大堰川保津峡)の開削であった。慶長一一年(一六〇六)三月に大堰川開削が始められた。工事は多難を極めた。水中にある巨石は、やぐらを組んで、長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈余りの先が鋭角になっている巨大な鉄槌を縄につなぎ、数十人で曳き上げ、垂直に落下させて石を割った。川幅が広くて浅いところは川幅を狭めて水を深くとり、瀑のあるところは上流の川底を削って下流と同じ面にした。このような土木工事に了以自ら陣頭で指揮した結果、その年の八月に工事が完成した。
大堰川の開削によって丹波から嵯峨まで船がはじめて通じることになり、これまで陸路で運搬していた五穀、塩鉄、材石などが船で運ばれるようになり、京都の経済に計り知れない利便をもたらした。そして了以も通航する舟から通舟料を取って莫大な利益をあげた。

富士川の疎通》

この大堰川開削の成功は徳川幕府の目に止まり、同じ慶長一一年に、富士川の疎通を命じられた了以は自信満々の気力をもって、翌慶長一二年二月に着工し一〇月に完工している。家康は大いにその功を讃えた。また、舟というものを知らない山峡の人々は「魚に非ずして水を走る。恐いかな」と驚嘆したという。しかし、家康から引き続き命じられた天竜川の開削は失敗に終わった。

《鴨川水道の開削》

天龍川開削に失敗した了以は失意のうちに日々を送っていたが、慶長一四年(一六〇九)に入るや、急に京都で新しい仕事が持ち上った。それは、秀頼が東山の方広寺に大仏殿再興を計画し、そのための建設資材の運搬の問題が起こったのである。
了以は大堰川にならって鴨川を疎通してこれらの資材を運送することを提案して認められた。工事は慶長一五年(一六一〇)にはじめられ、翌一六年に完成した。その間、いくたびかの大洪水で荒れに荒れていた鴨川の川床を平にし、湾曲部を手直しし、遂に鴨川に舟が通ることができるようになった。その起点は三条で終点は伏見であった。そして慶長一六年の秋に大仏殿は無事完工した。この鴨川水道はあくまでも工事用の仮設であった。了以五七才の年であった。

《高瀬側の開削》

鴨川水道の完成によって京都が水路で大阪に通じるという新しい価値が発見された。しかし鴨川水道は鴨川の氾濫するたびの修復が大変なことであると判断した了以は鴨川の河川敷の中に氾濫から絶縁して別の恒久的な水路をつくる、つまり鴨川に平行して運河をつくることを発案し幕府の許可を得た。これが現在の高瀬川である。慶長八年(一六〇三)に江戸に徳川幕府が開府され政治的首都でなくなった当時の京都はさびれつつあった。これは明治のはじめの京都とその事情が酷似している。明治時代の京都は琵琶湖疏水の開削と発電・市電の開通で京都の起死回生に成功した(図2参照)が、慶長時代のこの高瀬側の開削もそれと同様であった。
この浩二は(一)二条〜五条(二)五条〜丹波橋(三)丹波橋〜伏見の三区間に分けられ、慶長一八年(一六一三)から順次工事が行われ翌一九年に完成している。了以六〇才の年であった。この高瀬川の特長は第一に京都と伏見を直結したことである。それも、鴨川の西側につくられた高瀬川東九条で鴨川を横断させ(つまり、一旦鴨川に合流させ)鴨川の東側に高瀬川をつくって伏見に通じていることである。第二に各所に水門をつくって水位調整をはかり、川底の浅い高瀬川に船底の平らな高瀬舟を就航させたことである(図1参照)
了以はこの高瀬川開削が完了したとき、過労のため六〇才で没した。このように了以は信長・秀吉・家康の三代に生き、日本のウォーターフロント開発の第一人者としてその輝かしい生涯を終えた。

図1 明治の高瀬川
図2 明治の高瀬川(明治28年以降)
市電が走る 田中泰彦「京の町並み−今と昔」より