保津峡秘話

政経リポート平成16年4月5日号掲載分
秀吉・家康の時代、後藤・茶屋とともに「京の三長者」といわれた角倉(すみのくら)了以は、慶長一一年(一六〇六年)に大堰川保津峡)の開削の難工事を成功させた。この開削により丹波から嵯峨まで船がはじめて通じることになり、これまで陸路で運搬していた五穀その他の物資が船で運ばれることになり、京都の経済に計り知れぬ利便をもたらした。
大正一一年四月三日、嵐峡鉄道(現在のJR嵯峨野線)の保津峡鉄橋(清滝)の上で、いまだに原因不明とされているが、走行中の客車が突然迫り上るという奇妙な列車事故が発生した。このとき乗っていた田中源太郎氏(嵐峡鉄道創設者)が保津峡へ転落し水死するという信じられないような悲劇が起った。
明治二八年に開催かれた平安遷都一一〇〇年記念事業のうちの一つに、「山陰線建設計画」があった。この鉄道を国に代って開通させたのが、政治家であり金融王である田中源太郎氏であった。
昭和のはじめから四十有余年、筆者が住んでいた中京区新町通り錦小路上る百足屋町の町内に田中一馬(源太郎氏の子息)の表札が掲げられた豪邸があった。この豪邸は料亭「伊勢長」に引き継がれ今も残っている。
子供のころの筆者は母から次のような世にも不思議な物語を聞かされていた。
『田中源太郎という大高利貸しが自分で開設した鉄道を利用して保津峡に差し掛かったところ、鉄橋の上で汽車の中から保津峡へ転落し藻にからまれて水死体が発見されなかったそうな』
昭和三七年、筆者が京都市役所運繕課で建築設計の仕事をしていたところ、嵐山に建設会社を構える大島組の大島社長が朝早くからやってきて、いつものように世間話をはじめだした。
「望月さん、その話は少し違う。田中源太郎さんが保津峡の鉄橋の上から転落したのは本当やけど、水死体が発見されなかったというのは間違いや。なぜならその死体を発見したのはこの私やから」
大島社長は珍しく口をとがらして喋り続けた。
「若いころの私は保津峡で水難事故があると、必ず水難救助隊に参加して舟を出したものです。その事故のあった日、私も舟で転落した附近の水面を探したが、水死体は見付からなかった。そこは長年のカンで直ぐ川に飛び込み側崖の下へ潜った。そこにはいくつもの洞穴があるんです。果して、その洞穴の一つの水面に水死体が浮かんでいた。
なぜ、こんなおかしな事故が起こったのですか。そんなの当然のことで、弁天さんの祟りですわ。田中源太郎さんが弁天さんのおられる真上に鉄橋を架け汽車を走らせたので弁天さんの怒りに触れたんや」
田中源太郎氏は嘉永六年(一八五三年)、旧桑田郡山北町に、田中蔵一氏の次男として生まれた。父は元龜山藩の会計方を務め、廃藩後は貸金業をはじめ、明治一七年(一八八四)年、龜山銀行(現京都銀行亀岡支店)を設立している。
明治一七年、田中源太郎氏は若冠三二歳で京都府会議長、京都株式取引所頭取となり、同一九年に京都商工銀行を創立し、衆議院貴族院議員となり国政にも関与した。特に金融関係については、北海道拓殖銀行日本興業銀行朝鮮銀行などの創立委員として活躍した。さらに日本銀行など中央財界にも大きな影響力をもち金融王の名をほしいままにした。
JR亀岡駅の近くにある料亭「楽々荘」は田中源太郎氏の旧邸宅を引き継いだもので、明治期を偲ばせる洋館と大広間が造られ、京庭風に洗練された庭(七代目小川治兵衛の作)があり、風雅に富んだ建物である。