桓武天皇の母の陵墓

政経リポート平成16年3月25日号掲載分


西京区御陵塚ノ越町に、国道九号線(五条通)が樫原街道を西へ過ぎた東側に「天皇ノ杜(もり)」古墳が現存している。前方後円墳で大正一一年三月八日に史蹟に指定されている。天皇と名付けられているが天皇名は不明で、この地の豪族の墓ではないかと云われている。いずれにしても、天皇の墓ということに因んで付近一帯が御陵(ごりょう)○○町の地名になっている。(下図参照)

昨年開校した京都大学桂キャンパスの地も殆ど御陵○○町であったが、このほど、キャンパス校地の町名を変更して「京都大学桂」の新町名に変更された。

この京都大学桂キャンパス前の九号線を少し西に行き、旧山陰街道を右折して更に西に行くと北側の小高い場所に、桓武天皇の母、高野新笠(たかののにいがさ)の陵墓がある。(下図参照)
延暦八年(七八九)、新笠が没し、大枝沓掛のこの地に葬られた。桓武天皇の父の光仁天皇の皇后であったところから、光仁天皇皇后陵と称せられた。その翌年、新笠の母、土師真妹とその一族が桓武天皇から「大枝」の姓を賜わった。

この陵墓の場所と大枝の姓から新笠の実家は大枝にあったとされた。当時は夫婦別居制で、生まれた子供は母親のもとで育てられるのが慣例であったから、桓武天皇も若いころ母の実家の大枝で育ったことが長岡京遷都の背景になったとされた。しかし、事実は違っている。皇族の陵墓は古来より都の北方や西北方に営まれるのが慣例であって、桓武天皇が陵墓に古代貴族の葬地として有名であった大枝の地を選んだにすぎない。大枝への改姓も母の陵墓設営に因んでその文字が選ばれたにすぎないとするのが今では定説になっている。

高野新笠は和乙継(やまとのおとつぐ)を父、土師真妹を母として生まれた。父方の和氏は百済(くだら)系の渡来民族で、大和国大和郷(現在の天理市内)に移り住んだので和(やまと)と名乗るようになった。新笠の母、真妹の墓が大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡)にあることから真妹・新笠母子の居住は大和にあったとみられる。

また、改姓は一般に居住地名に因むが、土師真妹は長岡京遷都前に没しているので居住地に墓づく必然性はなかった。土師氏はもともと葬儀や山陵造りに従事した氏族であったが、後にその職業を忌避するようになり、改姓は望まれるところであった。

高野新笠桓武天皇の母としてその名がよく知られているが、なぜ高野の姓であるかは余り知られていない。はじめは父の姓を継ぎ、和新笠(やまとのにいがさ)と名乗っていたが、称徳天皇(女帝)が没した直後、夫の光仁天皇から「高野」の姓が与えられた。それは称徳天皇が葬られたのが高野山陵であったので、その高野の名を取ったものとされている。称徳天皇は没後高野天皇とも称せられたので、高野天皇と関係があるように意義づけられたと解釈される。

江戸時代、老ノ坂にある酒呑(しゅてん)童子首塚を新笠の陵墓と誤って称されていたが、明治一三年に現在の大枝沓掛地が正しいと定められた。(一部引用文献、村井康彦編「京都・大枝の歴史と文化」)