エルサレムと京都

政経リポート平成16年3月15日号掲載分
《奇跡の国》
「二〇〇〇年の過去を通じて、ユダヤ民族ほど、大きな変遷をへてきた民族があるだろうか。しかもこれほどつねに、人間最大の災厄の中から、ふたたびもとの姿でたちあらわれた民族があるだろうか。」こう書いているのはアドルフ・ヒトラーである。
以下、この項では、村松剛著「ユダヤ」の一部を引用する。
ユダヤ人が国連の議決によって、永年の悲願をかなえられ、パレスチナでの建国が許されたのは、一九四七年(昭和二二年)である。これに対し反対するアラブ諸国からの激しいテロ行為が頻発した。現在のイスラエルパレスチナ人とのテロとその報復の繰り返しによく似ている。
それまで委任統治をしていたイギリス兵がひきあげた日、一九四八年(昭和二三年)五月一四日がイスラエル建国の日となった。直ぐ、北からはシリヤ・イラク五万の軍隊、ヨルダンのアラブ軍隊、南からはエジプト二万五千の軍団がイスラエルへ殺到した。
当時のイスラエルの人口は六五万で、そのうちほぼ五人に一人にあたる一二万の男女が動員され強力な武器をもつ軍団と対戦し多数の戦死者を出した。
しかし、彼らは、ヒトラーのことばどおり、この史上最大、空前の災厄から再び三たび生きのび、ユダヤ人絶滅を叫ぶアラブ人の砲火の下に、自分たちの国家イスラエルを樹立するに至った。
アラブ人はこの戦争を「神聖戦争」(ジハード)と呼ぶ。現在もこの言葉が使われている。ユダヤ人にとって、パレスチナが祖父伝来の故郷の地であり、神聖な土地であるなら、それはアラブ人にとっても同じだろう。一九〇〇年まえ、この地を追われたユダヤ人が、いまごろになって帰ってきて、土地の先取権を要求する。一九〇〇年まえの所有権が生きるなら、アメリカはインディアンのものではないか、とアラブ人は言う。どちらにとっても、神の名の下に行われる戦争だったのである。

1 軍事停止ライン
  (1949年、現在の事実上の国境)

2 イスラエルが1947年
  国連勧告より進出した部分

イスラエルの位置》
アジア大陸の西端近く、東から紺碧の海、地中海が細長い袋のように伸びてきたその東のどんづまりに位置する日本の四国位の大きさの国である。(左図参照)
イスラエルへの旅》
一九六四年(昭和三九年)六月二一日午前三時、私たちはイスラエルのテルアビブのロッド空港に降り立った。私たちとは、イスラエルの首都エルサレムで開催される住宅・都市国際会議に出席する日本全国から参加した四〇数名の視察団のことである。この空港は八年後の一九七二年九月に、パレスチナ・ゲリラに加担した日本の岡本公三らによりテルアビブ国際乱射事件が発生したことで知られている。
私たちは、この地で七日間滞在し、全国をバスで視察した。建国後わずか一六年の国境線は生々しく、幻想的な死海に臨み、キブツという共同農場は、いざというときには砦(とりで)になり防空壕も造られていた。
ネゲブといわれる半砂漠も多く目に付いたが、樹林地も多く、地中海の海水を真水に変える装置を使って適時自動散水するスプリンクラーの付いたオリーブの森は美しい緑に映えていた。
エルサレムと京都》
イスラエルが独立して最初に手掛けたのは国語をヘブライ語としたことである。二〇〇〇年間死語になっていた言葉を現代に復活させるには、日本人が万葉集の言語を現代口語にしようとするほどの―――いやそれ以上の困難があったに違いない。それでも彼らは、旧約聖書中の単語七、七〇〇を基礎に、約三万語から成る現代ヘブライ語をつくった。
このユダヤ人が日本に来て最初に驚くのは、街頭にはんらんするカタカナで書かれた屋外広告物である。一瞬、イスラエルの国語であるヘブライ語ではないかと思うそうである。それほど良く字体が似ているという。
このユダヤ人が京都へ来て「ぎおん」の「ぎ」園祭を見たとき、さらに深い印象を受ける。それはギオンをシオンと感じるらしい。シオンとはイスラエルにある聖なる丘のことで、ユダヤの別名にもなっている。したがって、ギオン祭はシオン祭、つまりユダヤ祭ではないかと思うようである。ここで面白いのは、「ぎおん」の「ぎ」とよく似た字で祗という字がある。「ぎおん」の「ぎ」は「ギ」と読むが、祗は「シ」しか読めない。誤って「ぎおん」の「ぎ」園を祗園と書いている看板を見かけることがある。そこで、祗園祭と誤って書けば、それこそ「シオン祭」としか読めないことになる。
エルサレムも京都も長い間首都であり、現在も古都として健在である。
ユダヤ人は、八坂神社の建物の朱の色を見て、古代ユダヤ神殿と同じ色彩だ、山鉾巡行が疫病退散が目的ではじまったが、ソロモン王がはじめて神殿をつくってささげた祈りと全く同じだ、船鉾はノアの箱舟だ、化粧の織物はユダヤ人が絹を染めて織ったものをシルクロードを経て運んできたものだ等々という。
聖書の創世記第八章で「神はノアと、箱舟の中にいたすべての生きものと、すべての家畜とを心にとめられた。神が風を地の上に吹かせられたので、水が退いた。また淵の源と、天の窓とは閉ざされて、天から雨が降らなくなった。それで水はしだいに地の上から引いて、一五〇日の後には水が減り、箱舟は七月十七日にアララテの山にとどまった」と書かれている。ユダヤ人はギオン祭がはじまる七月一七日が、ノアの大洪水が終わった日と合致していることも強調する。
ユダヤ人と日本人》
紀元前七二二年、ユダヤ十支族でつくる北のエフライム王朝がアッシリア帝国の侵略を受け、国が滅ぼされ、十支族は世界中に難散して歴史のなかに消滅した。一方、南のユダヤ王朝(ユダ、ベニアミンの二支族)も紀元前七〇年にローマ帝国に滅ぼされ、生き残ったユダヤ人は以後二〇〇〇年の長きにわたり世界中を放浪することとなった。
その後、失われた十支族のうち一支族が、一九八四年(昭和五九年)エジプトで発見された。日本へも別の一支族が移ってきて同化したと言い伝えられている。
七九四年、平安京が創建される前、京都にはすでに西より渡来した秦氏が住み、絹をくつくり織っていた。そのうえ、平安京創建時に秦氏はそのすぐれた土木技術により都づくりに貢献したと伝えられる。絹はユダヤの別名ともいわれる。シルクロードユダヤロードに通じ絹織物でユダヤと京都は歴史的にも強く結ばれている。