畿内大地震元号説

政経リポート平成16年3月5日号掲載分
「文政十三年七月二日、つまり今より約一七〇年前、今の暦なら八月一九日という夏の盛りの午後四時頃、京都を中心として地震が起こった。宇佐美龍夫によるところの規模は(マグニチュード)六・四であった。然しかなりの被害があった。いわゆる直下型地震であった。」
これは三木晴男京都大学地震予知観測地域センター長著「京都大地震」の序文の一部である。
平成七年一月一七日、兵庫県南部地震が発生して九年が経過した。当時、神戸市周辺の川西市伊丹市の被災度判定調査をボランティアで組織的活動をしたことが強く思い出される。また、地震に関する専門書も多く精読した。
その結果判ったことは、京都大地震マグニチュード七以上)が平安京以降四百年ごとに発生していることと、発生年が殆ど和暦元年であることであった。
四百年ごとの大地震とは、文治元年(一一八五)と慶長元年(一五九六)で、現在は四百年を超えている。畿内(京都付近)にいつ大地震が起こってもおかしくない。東京大学名誉教授宇佐美龍夫氏は、「(大地震は)あした起きてもおかしくないし、数十年起きなくてもおかしくない」との名言を吐き、「もっとも、困る点がないわけでもない。人々は前半を忘れて、自分に都合のよい後半だけを記憶にとどめるクセがあるからである」と言い結んでいる。
次に京都大地震の発生年が殆ど和暦元年に当ることで、当初は大変奇妙に思ったが、歴史年表(下表)を調べてみると理由は単純なことであった。最初に紹介した文政十三年の地震を例にとると、地震発生後、年内に改元されて天保元年に改められているからである。
一見して和暦元年が大地震の当たり年のように思われるが、実際は都及びその周辺で大きな厄災が発生すると、朝廷は穢(けがれ)を嫌がって直ぐ元号を変えてしまうためである。詳しく調べてみると面白いことに、西暦一三〇〇年ころまでは大地震発生直後一ヵ月ほど後に改元しているが、その後改元の時期が遅れ出し、京都大地震として最も新しい一八三〇年のときの改元地震発生の七月二日の後、五ヵ月おくれた年末の一二月一〇日であって改元の目的が果たされていないに等しい。
しかし、京都を震源地とした文治元年七月九日は、元暦二年七月九日が、慶長大地震といわれ、伏見城が大破した慶長元年七月十二日は、文禄五年七月十二日が、江戸時代に起きた京都大地震天保元年七月二日は、文政十三年七月二日とするのが正しいが、いまさら、文治、慶長の元号を変えたら一般人には却って理解し難いだろう。明治以降は一世一元制になったから、このような中途改元による混乱は無くなった。
むしろ気になるのは「畿内地震四百年説」ともいえる方である。文治元年(一一八五)の京都大地震マグニチュード七・四でそのエネルギーの大きさは兵庫県南部地震の二倍に当る巨大地震であった。京洛の家屋は殆んど大破壊したに違いない。この年の三月、平家軍壇ノ浦で源氏軍に全滅させられてその後、鎌倉幕府が開かれ政治の中心が東へ移る。文明の転換期といえよう。
慶長元年(一五九六)の大地震の二年後、秀吉没す。さらに二年後の慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、江戸幕府が開かれた。第二期文明転換期といえよう。この文明転換期説の解説は別の機会に譲る。

京都の超高層塔

政経リポート平成16年2月25日号掲載分
2000年(平成12年)1月5日、京都商工会議所稲盛和夫会頭は京都経済四団体新春年賀交歓会のあいさつで、京都の新たな観光名所として、世界有数の80メートルの高さの木造で「平和の大塔」建設に取り組む構想を明らかにした。
稲盛会頭は「まだ夢のような話だが釘一本使わない木造の八角九重塔を再現し、2十世紀の戦乱で亡くなった世界の人々の鎮魂の塔にしたい」と語っている。この話は残念ながら立ち消えになっている。
この話は筆者の友人のある大学の名誉教授の持ち込みであった。筆者も頼まれて市内の候補地をいくつか挙げたが、建築基準法上、このような木造の超高塔を建築物として使用するのは不可能に近かった。その可能性は建築基準法第3条第1項第四号で「保存建築物であったものの原型を再現する建築物」に限られる。つまり、元あった位置で復元する場合である。その位置は、左京区岡崎の市営動物園の中である。
京都はその歴史のなかで、宗教施設に対し巨大な投資をしてきた。今それらは貴重な文化遺産になっているが、それぞれの時代の庶民にとっては、いかに巨大な宗教施設であっても畏怖すべき存在であった。現在のような超高層反対の意見が出る余地は全くなかった。『京都の歴史2』の叢書の一部を引用して話を展開することとする。
左京の白河一帯が急速に開発されていったのは、11世紀後半における白河天皇の法勝寺(ほっしょうじ)にはじまる寺院、いわゆる六勝寺や離宮の造宮に関係がある。六勝寺とは法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺をいう。これらの6勝寺の地は現在の岡崎公園一帯、動物園のある辺りで、二条大路をそのまま延長したところに法勝寺の西大門が開かれ、ほかの寺々もその間でこの大路に面して、その南北に1町ないし4町の規模でつくられていた。
法勝寺は左大臣藤原師実の献上をうけた白河天皇が、承保2年(1075)造宮に着手した御願寺である。この寺域は約4町と推定されるから、かつての藤原道長の法成寺に匹敵する規模を有していた。
「希代」といえば、法勝寺を特徴づけた九重の大塔こそそう呼ぶにふさわしい建物であった。この塔は永保元年(1081)に計画され、以後3年を要して建造された。八角九重というその形状ばかりでなく、その大きさも並はずれていた。(左図参照)暦応3年(1340)の記録によると、その再健塔の高さは27丈あったと推定されるから、元はそれと同じか、むしろ超えていたと思われる創建の塔は、実に82メートルに及ぼうという巨大なものであった。しかし地盤が弱かったに違いない土地で地盤改良をすることなく建造したため、おそらく不同沈下が起こり、承得2年(1098)に大修理が行われた。木造で82メートルの高さの超高塔が、今から920年前に建てられたことは驚くべき高度な木造技術があったことを証明するものである。現存していれば世界文化遺産の筆頭に挙げられるべきであったろうが、現存していない。
この超高塔は創建百年後の元暦2年(1185)その年改元されて文治元年7月の京洛史上最大の京都大地震マグニチュード7.4、兵庫県南部地震の2倍のエネルギー)によって大破壊した。「平家物語」の記述によると、「白河辺の六勝寺はみな倒壊し、九重の塔も上の六層がくずれ落ちた。」とある。
実際は大塔の相輪が折れ桧皮葺(ひはだぶき)の屋根板がすべて落下し、大塔の胴体部分だけが残り、辛うじて倒壊を免れている。
その後再建されたが、承元2年(1208)に落雷によって焼失した。その後再び再建されたが、康永元年(1342)に附近の人家火災の飛び火により再び焼失し、以後は再建されなかった。わずか258年の寿命であった。正に、地震・雷・火事は恐ろしい限りである。

JR京都駅改革小史

政経リポート平成16年2月15日号掲載分

昭和25年4月、筆者は京都市役所土木局営繕課へ建築技師として就職した。就職した年は市内の木造建消防署の車庫だけを鉄筋コンクリート造に改築する仕事が多かった。
昭和25年11月17日の夜、下京消防署(JR京都駅の北側の近鉄百貨店の西)内の署長公舎で車庫の建替えの設計の打合わせをした。そのときの吉岡署長の話によると、市内の各消防署には独立した鉄骨製の望楼の上から火災発見するのが最も有効であり、下京消防署は南側に建つ関西電力ビルの塔屋を借りて望楼の代わりにしているので他よりも視野が広くて火災発見が早いと自慢されていた。確かに京都駅舎を真下に見下ろす位置に在った。

翌一八日早朝京都駅舎が全焼した。駅舎の屋根裏に延焼し続けたため望楼発見が遅れた。その責任を問われて間もなく人事異動で署長は左遷させられた。不運という二文字をいまも忘れることができない。(2)が消失前の駅舎で、(1)は初代の京都駅舎で、(3)は消失後の三代目の京都駅舎である。三代目の設計は設計コンペ(競技)により京都市内の吉村建築設計事務所の八木副所長の案が当選した。この三代目駅舎は戦後の経済不況の中で節約して改築されたので鉄筋の使用量も少ないと国鉄当局は早期改築を望んでいた。この写真は戦後苦労した市民にとってはなつかしい思い出であろう。


初代駅舎


2代目駅舎


3代目駅舎

『歴史都市・京都の玄関ともいうべきJR京都駅ビルの改築設計コンペ要領が京都駅ビル開発株式会社から発表され、貴殿はコンペ参加者の一人として指名されたことを知りました。
御承知のとおり、京都は平安京以来千二百年の歴史をもつ世界的な歴史都市であり、ユネスコも1970年に「京都・奈良の都市計画における歴史的地域の保存と開発に関する勧告」で、その価値の高さを確認しています。
ところが、東京にはじまった狂乱地価はこの京都にも波及し、都心部ばかりか自然環境や歴史的遺産に恵まれた周辺部にまで乱開発の波が押し寄せ、歴史的景観や環境の破壊が次々と引き起こされています。しかも、京都市は総合設計制度を導入で建築物の高さを緩和するという景観無視の決定を行いました。京都を愛し、ここに住み続けたいと願う市民の間に、高層建築乱発への突破口となることを危惧(きぐ)する激しい論議が巻き起こり、京都を守れという大きな運動が、澎湃(ほうはい)として起きたのも当然のことだと思います。

発表されたコンペ要領を見ると、「シンボリックな形状および新しいランドマークの創出」を求め、具体的な高さは設計者にゆだねながら、同時に「高さについては、都市計画上の所要の措置が得られるものと仮定する」として、超高層の駅ビルを計画することを前提としており、市民の間に歴史的景観の破壊に対する不安と抗議の声が広がっています。
私たちは京都の歴史的景観や環境を守り、安心して住み続けることのできるまちを創りあげていく主体が、そこに暮らす市民であると考えています。この立場から、私たちは間接的にしか知ることのできなかった市民不在の改築計画の進め方に対し、計画を広く市民に公開することや、歴史都市・京都の景観について深い見識をもつ建築家に設計を委嘱すべきことを訴えた要請を、今年七月、京都市などの事業主体に行いましたが、顧みられることなく、今日に至りました。
そこで、私たちは指名コンペに参加される貴殿に、JR京都駅ビルの改築計画に関する以下のような公開質問を提起致します。誠意ある御回答をお寄せくださることをお願い致します。
ご回答は12月20日までにお寄せください。なお、その結果は公表されることを申し添えておきます。
一  JR京都ビルの改築計画に関して、市民の間に京都の歴史的景観にそぐわないノッポビル反対の運動が巻き起こっていることをご存知ですか。
二  このノッポビル反対の市民の運動について、どうお考えですか。
三  私たちはかけがえのない京都の歴史的景観を破壊から守ることが、日本ばかりではなく世界的にも緊急の課題だと考えます。貴殿の京都の景観についての基本的な考えをお聞かせください。
四  コンペの要領には「文化の香りと躍動する街のメディアとしての駅」というコンセプトが掲げられていますが、改築計画立案に当り、前項のお考えを踏まえた貴殿のデザインの基本的なコンセプトをお聞かせください。
五  コンペ要項にある計画の条件に、貴殿のデザインコンセプトからみて不適切な点があるとは思われませんか。もしあるとすれば、主催者にその指摘を行い、訂正を申し入れるお考えはありまえんか。また主催者が申し入れに応じない場合、コンペの参加を辞退されるなどの処置を講じる意向はありませんか。
六  JR京都駅ビル改築計画に関して、事前に市民との話し合いの場を持ち、あるいは市民の声を受け入れる意向がおありでしょうか。
なお付け加えて、広範な市民の反対運動が展開されたにもかかわらず、1964年、京都駅前に工作物として建てられた130メートルの高さをもつ京都タワーは、すでに電波塔としての機能を失っています。貴殿がJR京都駅ビル改築計画を立案されるとき、この近接する京都タワーが計画上支障をきたすと考えられる場合、このタワーの撤去を提案されるお考えはありませんか。ご回答頂ければ幸いです。
1990年12月10日
新建築技術者団・京都支部

長文の(JR京都駅ビル改築設計コンペに関する公開質問状)である。
景観史的価値が高いので、あえて全文を紹介した。その結果、公開質問状は表面上無視され、翌平成3年(1991年)5月8日、審査の結果、東京の原廣司氏案が当選した。
この公開質問状がコンペ参加の設計者の心を強く揺さぶったことは事実である。当選案は建物の高さが最も低く、しかも59.80メートルと京都ホテルより20センチメートル削っているところが大いなるプロ感覚といえるものであろう。
この駅舎ビルの完成度の反響は少なく、むしろ若者には歓迎されているようである。京都駅に着いた乗客にとっても、駅舎内は暗く冷たい寺の本堂内を歩く感覚があり、京都に着いたなあの実感を持たせていると思う。あれほどマスコミが連日のようにノッポビル林立の時代到来と宣伝していたのは何であったか虚しい気持ちだけが残っている。
京都タワーは残った。しかも新駅舎ビルができたことで、却ってその巨大なスケール感が無くなっている。いま京のまちは、都心に建つ高層分譲マンションラッシュに対し、民・官・企業の攻防に焦点が移っている。